私は中学3年の頃から、看護師になろうと決めていました。
理由とかきっかけをよく聞かれるんですが、
あんまりはっきりとは覚えていなくて、
ただずっとマザーテレサの活動に興味を持っていました。
だから私も医療者になって、途上国で働くんだって思っていたんです。
高校卒業後に、看護短大に進学しました。
3年間の短大生活は、世間の大学生とは全然違う世界でした。
毎日グループワークやレポート提出がある他に、
実技も身につけていくという多忙な日々。
洗髪や清拭を習ったら、朝と夜に友達同士で毎日練習。
家でお風呂に入る必要がないくらい、学校で体をきれいに拭いてもらっていました。
実習が始まれば、朝早くから病院に行って
患者さんの情報収集とアセスメント(その患者さんがどういう状態で何が必要なのかを考えるスキル)、患者さんに一日くっついて回って、
その日のうちに考察をして、次の日に備える。
看護師の仕事は好きだけど、
あの実習の日々は、もう繰り返したくないって思いくらい大変でした。
で、そんな多忙な日々を終えて看護師国家試験も終了。
2003年3月に無事に看護師免許を取得しました。
これからは実習ではなく、毎日が本番で患者さんと接していくんだ!と意気込んでいたんですが、
実はその半年くらい前から、左足に違和感を覚えていました。
走ったりしたときに大腿部がツーンと痛くなっていたんです。
疑問に思いながら過ごしているうちに
歩いていてもじっとしていても
ツーンツーンって痛みが出るようになりました。
近くの整形外科に行ってレントゲンを撮ったんですが、
オーダーは膝のレントゲン。
痛みがあった大腿部はぎりぎり写りませんでした。
異常なしっていう診断のまま忙しさもあって半年経ち、
国家試験も終わったところで、やっぱり痛みがなくならないので、もう一度病院に行きました。
今度は両足のMRIを撮影。
画像を見てびっくりしました。
素人目にもわかる左足の異常所見。
右足の大腿骨は白く映っているのに、
左大腿骨は真っ黒だったんです。
これはまずいと思って大きめの病院を紹介してもらいました。
でも紹介された病院の医師はわからないと言って、
他の病院の医師とのカンファレンスで相談したりしていました。
後々わかったことですが、
整形外科領域の腫瘍って、かかる人が少ないから
診れる(診断できる)医師も少ないんです。
だからこのこと自体は普通のことで責めるつもりはないですけどね。
カンファレンスの結果、骨の生検をしようってことで、
局所麻酔をして骨の一部を採取。
一週間待って出た結果は
「少量で判断できないから、今度は全身麻酔かけて切開して、もう少し大きく組織を採ろう」
ってことでした。
「わかりました」って答えながら、でもこの間にも痛みは進行していて、
正直早く診断して治療方針を決めてほしい気持ちでいっぱいでした。
自分の体なのに、他人に振り回されている感がすごく嫌だったんです。
だってもうすぐ看護師として仕事できるのに、
自分の病気の診断がつかないんです。
焦りと不安で時間が経つのが長く感じました。
そんなとき母親の知り合いが勤めている、がんの専門病院の話が出てきました。
診断はつかないけど、おそらく何かしらの腫瘍なんだから、
専門病院で診てもらおうと思いました。
その決断は正しかったです。
大腿骨のレントゲンを診た医師は
「これはまずいよ。すぐに生検して確定診断して、治療した方がいい」って言ったんです。
その前の病院では、かれこれ1か月くらい診断できないって待たされていたので、
その医師の言葉に、「あ、この先生すごい。この人に診てもらおう」って思えました。
全身麻酔での生検はすぐにセッティングされ、
手術した日の夕方には診断がつきました。
「左大腿骨骨肉腫」
MRIを診たときに、私の中に浮かんだ病名でした。
やっぱり悪性腫瘍だったという落胆。
やっと診断がついて治療が始まるという安心感。
でも病名以上に私を驚かせたものがありました。
「右肺転移」
それはまったく予想していなかったもの。
骨肉腫と聞いたときは、病名を予想していたこともあって、
手術と抗癌剤治療をすることになるんだなって
どこかで覚悟していた気持ちが
転移という言葉を聞いて、その覚悟がもろく崩れていきました。
骨肉腫ってよく小説やドラマの闘病物として使われるんですが、
最終的には転移のスピードに治療が追いつかなくて
死に至るものが多いんです。
だから転移している事実を知ったとき、
「あ、私も死ぬんだ」って思いました。
あの、一気に突き落とされる感覚は
今思い出しても怖いです。
2003年5月、関口陽子、21歳。
看護師免許取得と同時にがん患者になりました。